言葉は常に変化してきた。新しい言葉が生まれ、古い言葉が使われなくなり、誤用とされていた表現が定着し、方言や俗語が標準的な表現へと取り込まれることもある。
現在の若い世代が使う言葉にも、短縮された表現や、本来とは異なる意味で使われる言葉が数多く存在する。しかし、それだけを見て「現代人の言語能力が低下している」と結論づけることはできない。言葉を意図的に崩して使うことと、正しい表現を知らないためにそれしか使えないことは、外から見れば似ていても、本質的にはまったく異なるからだ。
正式な表現を理解したうえで友人との会話では簡略化する人と、そもそも正式な表現を知らない人では、同じ言葉を使っていてもその背後にある言語能力は違う。問題は言葉が変化することそのものではない。人工知能が日常生活のほぼすべてに入り込む未来において、人間が言葉を正確に理解し、自分自身で考え、自分自身の言葉によって表現する必要性そのものが減っていく可能性にある。
言葉は思考の道具でもある
人間は言葉だけで考えているわけではない。映像、空間、感覚、数式、音、身体感覚など、多くの非言語的思考方法が存在する。したがって、語彙が多ければ必ず思考能力が高いという単純な関係ではない。
しかし、抽象的概念を区別、比較、論理的に整理するうえで、言葉は非常に強力な道具である。例えば、因果関係、相関関係、必要条件、十分条件、蓋然性、帰納、演繹、反証可能性、こうした概念を知っている人は、それぞれを別のものとして認識し、頭の中で操作できる。一方で、異なる現象をすべて「なんとなくそう思う」「やばい」「微妙」といった少数の言葉で処理している場合、情報を伝えることはできても、概念を細かく分類することは難しくなる。
「この政策はやばい」という表現と、「政策の目的には賛成できるが、制度設計上のインセンティブが目的とは逆方向に作用する可能性がある」という表現には大きな違いがある。後者では、目的、制度、インセンティブ、因果関係といった異なる概念が切り分けられている。つまり、言語能力とは単に綺麗な文章を書く能力ではない。自分の中にある曖昧な感覚を分解し、構造化し、他者にも検証可能な形へ変換するための能力でもある。
AIは言語能力を高めるのか
人工知能が普及すれば、人間が触れることのできる情報量は飛躍的に増え、知らない言葉があれば、その場で質問できる。難しい文章を読んでいて理解できない部分があれば説明してもらえる。外国語で書かれた論文も翻訳できる。ある概念について、小学生向け、大学生向け、専門家向けと説明のレベルを変えることさえできる。この意味では、人類史上これほど学習に有利な環境は存在しなかったともいえる。しかし、情報にアクセスできることと、その情報を自分自身の知識として持っていることは同じではない。
AIによって答えを得ることが容易になればなるほど、その答えへ到達する途中で人間自身が行っていた認知活動は減少する。例えば、ある歴史的事件について高校生が疑問を持ったとする。以前であれば、教科書を開いて索引を調べ、図書館で関連資料を探して前後の時代について読み、知らない人物や出来事に遭遇しながら必要な情報を組み立てる必要があった。その過程で当初の疑問とは直接関係のない知識にも触れる。そして最後に自分が理解した内容を文章としてまとめる。生成AIなら、質問し答えが返ってくる、そこで終了することもできる。得られる最終的な説明だけを比較すれば、AIの回答のほうが優れている可能性すらある。しかし、人間の脳が行った仕事量は大きく異なる。
接触した情報は知識ではない
ここには、今後の教育を考えるうえで重要な違いがある。情報への接触量が増えることと知識が増えることは同じではない。人間は何かを探し理解し、記憶から取り出して他の知識と結びつけ再利用することで、その情報を自分自身の認知システムの一部へ変えていく。ところがAIが検索、要約 比較、推論、文章作成までするようになると、その途中に存在していた認知活動そのものを省略できる。しかも、それは人間にとって合理的な行動でもある。
30分かけて文章を書く必要がある人と、AIに「高校生程度の文章で400字にまとめて」と入力すれば30秒で完成する人が同じ評価を得られるなら、後者を選ぶ人が増えるのは自然なことである。
問題はAIを使うことではない。自分自身で行う必要がなくなった能力について、人間の脳がどこまで発達させ続けるのかということである。
認知の外部化
人類は以前から認知能力を外部へ移してきた。文字は記憶を、本は大量の知識を外部化した。時計は時間管理を、電卓は計算を、コンピューターは情報処理を外部化した。検索エンジンは情報の所在を記憶する必要性を減らした。スマートフォンは電話番号、予定、地図、写真、連絡先など、日常生活における多くの記憶を外部化した。
その結果、現代人が過去の人間より知的に劣っているとはいえない。むしろ外部記憶を利用することによって、より複雑な社会や科学技術を構築することが可能になった。しかし生成AIには、それまでの道具とは少し異なる特徴がある。AIは情報を保存するだけではない。情報を整理、解釈、比較、推論し、表現する。つまり外部化され始めているのは記憶だけではなく、思考の途中に存在する処理そのものである。
文字は「覚えなくてもよい」を、電卓は「計算しなくてもよい」を、検索エンジンは「どこに情報があるか知らなくてもよい」を可能にした。生成AIは「自分ですべてを理解し、整理し、文章にしなくてもよい」ところまで進み始めている。
AIを使う人とAIに代わってもらう人
この違いにより、AI時代には人間の能力が単純に上昇または低下するのではなく、分岐する可能性がある。ある人は、自分で文章を考えて作成しAIに評価させる。知らなかった概念について質問し反論を提示させ、論理矛盾がないかを確認する。そして、自ら再考する。
このような利用方法においては、AIが思考を代替するのではなく拡張する。これまで個人には手の届かなかった量の知識や視点へ容易にアクセスできるため、言語能力や思考能力が格段に高くなる可能性がある。
他方、自身で文章を書く代わりにAIに書かせ、読む代わりに要約させる。調べる代わりに答えを聞き、判断する代わりにおすすめを求める、といった使い方も可能であるが、このような場合、AIによって得られる成果物の品質は上がる一方、それらを生み出す本人の能力が同じように高まるとは限らない。将来の社会では、人類が利用できる言語能力は史上最高でありながら、個々の人間が単独で持つ言語能力は低下する、という一見矛盾した状態が生まれる可能性がある。
幼少期からAIが存在する世界
さらに重要なのは、現在の成人がAIを利用することと、生まれた時からAIが存在することは同じではないという点である。現在AIを利用している成人の多くは、AIの存在しない環境で基礎的な読み書き、記憶、計算、論理構築能力を身につけてきた。完成した認知能力の上に、新しい道具としてAIを追加している。
しかし将来の子どもは違う。分からなければAIが説明する。文章が書けなければAIが書く。知らない漢字はAIが補完する。思い出せない言葉はAIが提示する。人間関係で何を言えばよいか分からなければAIが返事を考える。それが幼少期から当然の環境になる可能性がある。
人間の脳には高い可塑性があり、その環境で必要とされる能力を発達させる。逆に、ほとんど必要とされない能力へ同じだけの認知資源を割り当て続ける必然性はない。そのため問題は「AIを使うと人間は怠けるか」ではない。常に外部で利用できる能力を、人間の脳が内部にも重複して構築する必要があるのか、という発達上の問題になる。
AIを失った時に何が残るのか
この問題を考える一つの方法が、AIが突然使えなくなった世界を想像することである。将来、異なる世代の人々へ同じ課題を与える。インターネットもAIもスマートフォンを使わず、資料も参照しない。そして「この問題について2時間考え、3000字で論じてください」と要求する。
教育制度が現在のままで、AIによる認知代替だけが進んだ場合、この能力については後の世代ほど低下する可能性がある。しかし同じ人々にAIの利用を許可すれば、結果は逆になるかもしれない。より新しい世代ほど高度な情報へアクセスし、複数の資料を比較したり外国語の文献を読み、膨大なデータを分析して極めて高品質な文章を作る。
つまり、AIを含めた能力は上昇する/AIを除いた能力は低下する。という二つの変化が同時に起こる可能性がある。
BCIが境界を消す
Brain-Computer Interface、いわゆるBCIが実用化されれば、この問題はさらに複雑になる。現在はまだ、人間とAIの間には明確な操作が存在している。考え、端末を開き文字を入力す、回答を読み理解する。しかしBCIによって脳とAIが直接接続されれば、その境界は曖昧になる。名前を思い出そうとした瞬間に候補が現れる。外国語を聞いた瞬間に意味が補完される。文章を考え始めると続きをAIが提示する。会話の途中で適切な返答が生成される。複雑な概念について考えると関連情報が同時に呼び出される。その状態が一日中、そして生涯にわたって続くなら、「自分が知っていること」と「AIが知っていること」を区別する意味さえ薄れていく。その人はAIに接続している限り、現在の人間とは比較にならないほど多くの知識を利用できるかもしれない。
複数の言語を扱い、高度な数学を利用し、医学、法律、工学などの専門知識へ即座にアクセスできる。機能として見れば、人類史上最も高い知的能力を持つ人間になる。しかし接続を切った瞬間、語彙も少なく長い文章を構成できず、名前を覚えていないければ、暗算もできず、道順すら記憶していない。長時間、自身の脳だけでは論理を維持できない、という人間になる可能性もある。
人間は本当に能力を失ったことになるのか
ここで別の疑問が生まれる。AIが常に利用可能なら、その能力を人間自身の能力から除外する必要があるのだろうか。眼鏡を使用している人について、眼鏡を外した視力だけをその人の能力と考えることはない。自動車を使う人について、人間の脚だけで移動できる距離をその人の移動能力とは考えない。コンピューターを利用する科学者について、紙と鉛筆だけで行える計算を本当の研究能力とは呼ばない。
同様に、AIが常時接続されるなら、「人間+AI」を一つの認知システムとして考えることもできる。その意味では、人間の能力が低下するというより、人間の知能の一部が生物学的な脳から外部へ移動したと考えるほうが正確なのかもしれない。しかし、この構造には新しいリスクが生まれる。
認知能力の単一障害点
外部化された能力は、その外部システムが動いていることを前提としている。電力が失われ通信網がやサーバーが停止し、サービスを提供している企業が破綻。戦争が起こり国家によってアクセスが制限される。大規模なサイバー攻撃が発生しAIアカウントが停止。BCIそのものの障害発生。その時、人間自身に十分な能力が残されていなければ、単なるサービス障害ではなく、社会全体の認知能力が同時に低下することになる。
これは、AIが社会の重要インフラになるほど大きな問題となる。現在でも電力や通信は社会の単一障害点になり得る。将来、記憶、知識、翻訳、計算、文章作成、意思決定、コミュニケーションまで依存するようになれば、AIは人間の認知活動そのものを支えるインフラになる。
何を人間の内部に残すべきか
だからといって、すべてを昔の方法で学び続ける必要はない。電話番号を何十件も暗記する能力を維持することが、現代社会で特に重要とは考えにくい。巨大な数字の掛け算を人間が高速に計算できる必要もほとんどない。道具によって代替できる能力を外部化し、その分、別の高度な能力へ認知資源を使うことは、人類が繰り返してきた進歩でもある。問題は何を外部化し、何を内部へ残すのかである。
特に、語彙や読解能力、論理構築・言語化能力。他者の主張を批判的に検証する能力、因果関係を考える能力、矛盾を発見する能力などは、人間自身の中に残しておく意味が大きい。なぜならこれらはAIの代わりに何かをする能力であるだけでなく、AIが間違っていることを認識するためにも必要な能力だからである。
自分で論理を構築できなければ、AIが生成した論理が正しいかどうかを判断することも難しい。言葉の意味を十分理解していない人は、AIがもっともらしく生成した文章に含まれる微妙な誤りを見つけることができない。AIが高度になるほど、人間自身の能力は不要になるように見える。しかし同時に、そのAIを評価するための最低限の能力はむしろ重要になる。
教育の役割は変わる
そのため将来の学校では、「AIを使わない教育」が現在とは違う意味を持つ可能性がある。現在、試験でAIを禁止する理由の多くは不正防止である。しかし将来は、AIを使用せずに文章を書き、資料なしで考え、長い文章を読んだり、暗算による計算や、自身の記憶による説明、人間同士での議論、といった活動が、認知能力を維持するためのトレーニングとして行われるかもしれない。筋力を維持するためエレベーターが存在していても運動するのと同じように。
機械が重い物を持ち上げられるからといって、身体をまったく動かさなくてもよいとは限らない。AIが思考を補助できるからといって、人間が自分自身で考える必要が完全になくなるとは限らない。むしろAI時代の教育は、AIを使う能力と、AIなしでも考えられる能力、その両方を育てる必要があるのかもしれない。
能力は低下するのか、それとも変化するのか
将来の人間の脳が単純に現在より弱くなると考えるのも正確ではない。ある能力が必要なくなれば、その代わりに別の能力が重要になる。大量の事実を記憶する能力より、何を知る必要があるのかを判断する能力。答えを出す能力より、適切な問題を設定する能力。一つの情報を覚える能力より、多数の情報の関係を理解する能力。文章を生成する能力より、生成された文章が本当に妥当なのか判断する能力。こうした能力の価値はむしろ高まる可能性がある。つまりAIによって人間の知能が単純に下がるのではなく、知能の構成そのものが変化する。そして、その変化がどこまで進むのかは技術だけでは決まらない。教育制度、社会制度、文化、人間が何を能力として評価するのか、そして私たち自身がAIをどのように使うのか、それらにより未来は大きく変わる。
The Outsourced Mind
人工知能は、人間の外部に存在する便利な道具として始まった。しかしその役割は徐々に変わり始めている。検索するものから、答えるものへ。答えるものから、考えるものへ。考えるものから、人間と共に判断するものへ。そしてBCIのような技術が進めば、最終的には人間の思考と外部の人工知能との境界そのものが曖昧になるかもしれない。その世界では、人間は現在よりはるかに多くの知識を利用できる。言語の壁も小さくなり、専門知識へのアクセスも容易になり、個人が扱える情報量は飛躍的に増える。AIを含めた人間の能力は、おそらく現在より高くなる。しかし同時に、AIを取り除いた時に何が残るのか、という問いが生まれる。自分自身の記憶、語彙、判断、論理、そして、自分自身の言葉。それらをどこまで人間の内部に残す必要があるのか。これまで人類は、技術によって身体能力や記憶能力を外部へ拡張してきた。
これからは、思考そのものを外部へ拡張しようとしている。その結果生まれるのは、知的能力を失った人類とは限らない。むしろ、人工知能と接続することによって、これまで想像できなかった知的能力を持つ人類かもしれない。しかし同時にそれは、自分自身の脳だけでは、現在の人間よりも少ないことしかできない人類である可能性もある。未来の問題は、人工知能が人間より賢くなることだけではない。人間が自分自身で行う必要のなくなった思考を、どこまで自分の中に残し続けるのか。そして、思考を外部化することによって得られる巨大な能力と、思考する能力そのものを失わないことを、どう両立するのか。人工知能の時代に問われるのは、人間と機械のどちらが賢いかではないのかもしれない。より重要なのは、人間の知能は、どこまでが人間自身である必要があるのか。という問いなのだろう。