皆さん、こんにちは。
前回の記事で、『よく「学校の勉強なんて意味がない」とか「学校の勉強は社会で役に立たない」などと言う人がいますが、ある側面では一理あるとしても、そのように公言している人は、自ら勉強する方法を知っていて人生をうまく立ち回れているか、あるいは「実は役にたつ」ことに気づいていないだけでしょう。私は、義務教育レベルだけでなく、高校や大学レベルの教養があれば、もっと沢山の人の心が豊かになり、自分のやりたいことがもっと出来るようになると思っています』と書きましたが、少し誤解があるかもしれないと思い、今回はその続きを書こうと思います。
もっとも、文字だけで全てを伝えるのは難しいのですが、このブログのタイトル的に、「学校の勉強をちゃんとやれば、お金を稼げるようになる」といったニュアンスに感じさせてしまったかと思い、前回の補足をすることにしました。
結論から言えば、学校で学ぶようなこと、例えば、日本の歴史だったり、化学の実験が、社会人になって直接お金儲けへ繋がるようなことはほとんどありません。
生業として歴史研究家や、物理学者などになることが目標であれば、それらの知識が直接的に「お金儲け」の手段となるかもしれませんが、「お金儲け」だけが目的ならば、例えば、株やFXでテクニカルやファンダメンタルズなどを勉強すれば良いでしょうし、今時ならば、ITビジネスや、AIやバイオテクノロジーなどに関する事柄について勉強した方が手っ取り早いと言えます。
もちろん、学校の勉強をせずに社会へ出たとしても、幸せに生きることはできますし、経済的に成功することもできるでしょう。
しかしながら、結局どんなことも、突き詰めていけば「知識」が必要になるわけで、前々回でもお話ししたように、「知識」や知識に基づく「経験」を活かすことのできる「智慧」が必要になることは間違いありません。
私の伝えたいことは、私の尊敬する「志村史夫」氏の著書、『「考える知恵」がつく本』に、ほとんどのことが書かれています。
機会があれば、是非読んでみてほしいと思いますが、その本の冒頭に書かれているある一節が、その全てを物語っています。
その一節とは、映画「フーテンの寅さん」の主人公である寅さんの、「人間、長い間生きてりゃあ、いろいろなことにぶつかるだろう。なっ、そんな時に、おれみたいに勉強してない奴は、この振ったサイコロの出た目で決めるとか、その時の気分で決めるよりしょうがない。ところが、勉強した奴は自分の頭できちんと筋道立てて、はて、こういう時はどうしたらいいかな、と考えることができるんだ」というセリフです。
私は「フーテンの寅さん」をちゃんと見たことがありませんし、寅さんが好きなわけでも無いのですが、このさりげないセリフに「なぜ勉強することが大切か」の答えがあるように思います。
この一節だけを引用すると、この本の中身が少し軽く感じてしまうかもしれませんが、本題は、科学者であり、歴史、文明、自然科学など、幅広い事柄に造詣の深い氏の考察が様々な分野から語られている素晴らしい内容です。
同書の終盤では、単に知識を詰め込み記憶するだけでは脳は却って退化してしまうだろうと述べ、「記憶する脳」ではなく「考える脳」を作るべきだと締めくくります。
そして、アインシュタインの「想像力は知識よりも大切である」「現実は想像力に欠ける者たちのためにある」という言葉を引用し、『これ以上情報が氾濫したら、そしてこれ以上「効率」が向上したら、われわれの知恵、基本的潜在能力はどうなるのであろうか。』と、本書が書かれた2000年代初頭に警鐘を鳴らしています(氏は、それよりさらに遡る1980年代に同様のことを述べています)。
少し本の紹介のようになってしまいましたが、誰しも、寅さんの言う「いろいろなことにぶつかる」時がやってきます。
何かにぶつかった時、それは何かのチャンスかもしれませんし、その判断ができるのは、筋道を立てて考えるための「教養」であり「智慧」があってこそです。
江戸時代の柳生宗矩の言葉に「小才は縁に逢って縁に気づかず、中才は縁に逢って縁を活かさず、大才は袖触れ合う他生の縁もこれを活かす」という名言があります。
これは、「小才は縁が目の前にあっても気づくこともできず、中才は縁に気づいても活かすことができない、大才はちょっとした縁でも活かすことがでいる」ということを意味していますが、目の前の「縁」に気づくことができないのは、その「縁」についての関心が無いからです。
以前の記事で「心理的盲点」について何度か話をしましたが、人間の脳は大脳辺縁系で自分にとって「不要」とみなした情報は、それが視覚的に見えていても「なかったこと」にしてしまいます。
「縁」に気づいても活かすことができないのは、その「縁」について、よくわからなかったり、大して関心が湧かないために、「さほど重要じゃ無い」とみなし、折角の機会を手放してしまうからです。
学校教育が詰め込み型、偏差値偏重型の勉強になっているならば、それは、教育制度や教師の質の問題であって改善されるべきですが、一見何の役にも立たないと思える歴史や数学のような勉強も、自分の行動と経験に伴って「感性」や「教養」となり、それらがやがて「想像力」を育み、私たちがそもそも備えている「潜在的能力」を引き出す糧となります。
「It’s never too late to learn.(学ぶのに遅すぎることはない)」というように、勉強は思い立ったらいつでもスタートできます。
少しでも知的好奇心をそそることが目の前にあるならば、「自分には無理だ」と諦めず、どんなことにでも探究心を巡らせ、それを自らの糧として「感性」「教養」として武器にできれば、「他生の縁」を活かすことのできる大才へと成長できるはずです!
この「知識と経験が織りなす未来の選択肢!」は、また、本ブログで掘り下げていきたいと思います。