皆さん、こんにちは。
私は、自身の著書やブログ、メルマガなどを、自分の知人友人には積極的に宣伝していません。
理由はいくつかありますが、起業やワークスタイル、自己啓発的なことに関することについては、今まで関わりのなかった人をターゲットに発信したいと思っているからです。
そのような向きで毎週ブログやメルマガを更新しているわけですが、先日、ある友人にブログを見つけられてしまい(笑)、「実は本を出したり…」などと話したところ、意外にも肯定的なリアクションでお褒めの言葉をいただいき、非常に嬉しい気持ちになりました。
ブログ読者の「いいね」や、その他のリアクションも、もちろん嬉しいのですが、知っている人からいい反応をもらえると、やはり嬉しいものです。
ところで、私は一番多感な中学生の時期、自分の感情を抑え込む傾向がありました。
先生や生徒も含め、私の通っていた中学を好きになれなかったということもありますが、皆が右へ倣えで行動していることに違和感を感じるようになり、皆が笑っていることに対しては断固として笑わなかったり、先生や他の生徒が自分に対して期待している感情を一切表に出さなかったりと、側(はた)から見れば、非常にひねくれた中学生でした、笑
そのようにして培われた性格も、その後、良い面もあれば、悪い面もあったわけですが、殊(こと)「褒める」という点に関しては、自分が褒められることを絶対に期待せず、逆に、他人に対してもなかなか褒めることをしない性格になってしまいました。
幸いにも、良い知人や友人に恵まれたため、たまに何かに対して「褒める」と、それが「お世辞ではない」と受け取ってもらえるのですが、人の親になった現在、子どもに対してまで、その態度を貫くことはできません。
先日、子どもの写真を撮って褒める「ほめ写」という活動についてのニュースを見かけましたが、子どもの自信を向上させるために、このような自己肯定の機会を作ることは、子どもの成長にとって非常に良いことです。
私の子どもは、時々私のところにやってきて、学校やサッカーチームでの出来事を話してくれるのですが、「忙しい」という言い訳とともに、昔からの性格もあって、軽い返事をかえしてしまうことがあり、しばしば反省しています。
承認欲求云々はさておき、成長過程にある子どもは、認められることによって自身の存在意識につながり、自信が醸成されていきます。
それは、大人とて同じでことですが、社会人になると社交辞令をよく聞くことはあっても、真に褒めたり、褒められたりする機会は、それほど多くありません。
私たちは、知識や経験を蓄積することで俯瞰的な視点を持つことができる一方、自ら視野を狭めてしまい、新しい価値観や考え方などを肯定することが難しくなっていきます。
他人に迎合したり、無理やり価値観を共有する必要はありませんが、貯め込んだ知識や経験を柔軟性や許容力に変換し、それを「褒める」という形で発信することができれば、それはいつしか「褒められる」という形で自分の元へ戻ってくるはずです。
「褒める」という行為には、お互いに発生する喜びの気持ち以外にも、客観視した相手の価値観を「褒める」ことで相手に発信し、「褒められる」側が自己肯定へと変換する共感行為が、結果として発生します。
「褒める」「褒められる」という一連の何気ない動作は、豊かな心を育て、又、人の行為の本質を見抜く力を鍛えます。
世知辛いニュースや、社会のストレスにさらされがちな昨今、この「褒める」「褒められる」というシンプルな行動により、多くの価値観や考え方、そして社会の潮流を見極められるマインドが築かれれば、より俯瞰的な思考を獲得することができるでしょう!
この「褒める心、褒められる心!」は、また、本ブログやメルマガで掘り下げていきたいと思います。